StyleNorwayWebMagazine 【スタイルノルウェー】

中村孝則

Takanori Nakamura


コラムニスト。1964年葉山生まれ。
ファションやグルメ、旅やワイン&リカーなど、
「ラグジュアリー・ライフ」をテーマに、
新聞や雑誌、TVで活躍中。
自著『名店レシピの巡礼修業
作ってわかった、あの味のヒミツ』発売中。
http://www.takanori-nakamura.com

中村孝則

大作曲家の、小さな作曲部屋 ベルゲンにあるグリーグの家

まるで草庵の茶室のような小さいグリーグの作曲小屋。

小屋の中にあるピアノ。
いまにもメロディがなりそうな雰囲気だった。

作曲のためのデスクは
海に向かって開かれた窓に面している。

 

 

◎Edvard Grieg Museum エドヴァルド・グリーグ博物館

Troldhaugvegen 65, 5232 Paradis-Bergen, Norway
開館時間
5月〜9月 : 09:00–18:00/10月〜12月14日 : 10:00–16:00(12月15日から年内休館)
入場料 大人 : 90クローネ/学生 : 50クローネ(16歳以下は無料)
http://griegmuseum.no

 

友人の作曲家K氏は、自分から電話をかけるのが苦手だという。会話そのものじゃなくて、電話の向こうの呼び出し音が嫌なんだそう。「何かのメロディにしている人いるでしょう。あれは迷惑だよね。突然、突拍子もないメロディが電子音で飛び込んでくると、一瞬で白けちゃってね」。同じような理由で、ご当地ソングの発車メロディを使う駅も嫌になるという。
発車メロディにご当地ソングが使われ出したのは、蒲田駅の『蒲田行進曲』や高田馬場駅の『鉄腕アトム』あたりがはじまりなのだろうか。今では全国の多くの駅が、いわゆるご当地ソングを発車メロディにしている。ご当地キャラに同調した、ひとつのブームなのだろう。しかし、そもそも駅にメロディでキャラを付ける必要などあるのだろうか? 最近は、鉄道会社がコマーシャル料を取って広告メロディを流したりするからタチが悪い。発車ごとにメロディを流す鉄道は、諸外国では滅多にないが、それなりに機能しているし、渋谷のスクランブル交差点を器用に渡る国民なのだから、ほんとうはメロディがなくとも発車ベルくらいで充分なはずだ。耳の注意力も日々甘やかすと退化するから、用心した方がいい。そういう意味でいえば日本の都市生活で、いま最も贅沢なことは静寂を確保することなのだろう。

博物館にあるグリーグの写真と彫像。獅子へアがトレードマーク。

 

都会の喧噪が嫌で引っ越したのかは分からないが、グリーグは若い時に故郷ベルゲンから刺激的な都会のコペンハーゲンに移り住んでいたが、40代になって再び故郷のベルゲンに戻ってきた。しかも、トロルの丘とよばれる、郊外の海沿いの静かなエリアに家を建て、その後22年間にわたり創作活動を続けている。その家は現在、グリーグの博物館として一般公開もされ、母屋は貴重な資料として往時のままの姿に保存されている。敷地内には小さなコンサートホールが増築され定期演奏会も行なわれるというが、僕が興味深かったのは母屋から100mほど離れた創作小屋だ。存在そのものが地味なのか、観光客もほとんどいない。この部屋も当時のままというが、8畳ほどの室内には木製のデスクとピアノと暖炉、仮眠のためだろうか、小さなソファ・ベッドがあるだけだった。明かりは、ピアノとデスクに配された蝋燭のみである。既に地位を築いた大作曲家にとっては、あまりにささやかなのだけれど、当時のグリーグにとって最も必要だったもの――ありあまる静寂がそこにはあった。窓に面した海は深い入り江の奥だから、波音もほとんど聞こえない。時おり海鳥の囁きがするだけである。グリーグは、ここに移り住んだころから、ノルウェーの民族音楽や民族楽器のメロディに傾倒していくようになり、以降も多くの名作を残している。この静寂が創造のミューズになっていることは、間違いないようだ。作曲家の友人Kにも、一度ここを訪れるように勧めている。本当は電車好きなのだから、電車でベルゲン駅まで来いと伝えることにした。まさかベルゲン駅がグリーグの発車メロディになることもないだろうから。